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驚きの史実

 如何なる機関にこの問題を訴えても何の反応も解決もないことから、日々、どうすべきか知恵を合わせながら考えていた。

 そして、政治亡命申請から3ヶ月が経過しようとした時、全民党幹部の方より、仇討ちという枠でこの大問題を公表するように、とのご助言を受けた。もちろん、昔のように具体的に討つべきではないことは言うまでもないが、詰問という、言葉による勝負の場を求めることを目指して、準備を始めた。この進みを話し合い、色々と調べていた時、なんと、昔、実際に仇討ちを果たした姉妹の話が背景として見え、それは私たち姉妹に大きな勇気と感動を与えたため、この場を借りて、史実に力点を置きながら紹介したい。

 

 百姓であった父親を殺された二人の姉妹が、1723年(享保8年)3月に仇討ちを果した話である。その後、歌舞伎や踊りによって広く知られるようになったが、今回は、この仇討について記された最も古く、且つ史実に近い文献である『月堂見聞集』に基づいて、話を進めたい。『月堂見聞集』は、本島知辰(もとじま ちしん/ともたつ)という人が1697年(元禄10年)から1734年(享保19年)に至る37年にわたって、主に自ら実見した天変地異、政治や社会、出来事、行事や風俗などを詳細に記録した文献である。

 

 

仙台より写し来り候敵討ちの事 

                 (「堂見聞集」巻之十五より。)

「1718年(享保3年)、陸奥守様(伊達吉村)の御来・片倉小十郎殿片倉村定)が知行の時、足立村に四郎左衛門という百姓がいた。そして、片倉小十郎殿剣術師範に田辺志摩という1000石取りのがいて領地検分の供回りをしていたところ、路次の供回りを破ったとして、田辺志摩は四郎左衛門と口論になった。田辺志摩は四郎左衛門をその場で切り捨ててしまった。

 四郎左衛門には二人の娘がおり、父を殺されてしまった時、は11歳、は8歳であった。姉妹はその後、陸奥守様の剣術師範である瀧本八郎へ共に奉することになった。姉妹は密かに剣術を見習い、習練していた。ある時、女部屋から木刀の音がしきりに聞こえ、不審に思った伝八郎が見に行った。すると、姉妹が一生懸命に剣術の稽古に励んでいる様子を見た。伝八郎が姉妹に事情を尋ねたところ、姉妹は父親の仇討を心に決めている旨、及びその事件の経緯を申し上げた。これを聞いた伝八郎は深く感心し、その時以来、姉妹に正式に剣術の修行をさせ、姉妹に秘伝の技を教え込んだ。こうして、姉妹は何年も剣術の稽古に励み、修練を積んだ。

 そして、寸志を遂げさせようと事の次第を陸奥守様へお願い申し上げたところ、仙台の白鳥明神の宮の前に矢来(粗い囲い)を組んで1723年(享保8年)3に勝負させることを仰せ付けられた。

 仙台中衆が警固検分を務める中、姉は志摩と数時間にわたり討ちあい、姉妹で替わる替わる戦った。そしてついに、志摩切りに切り付けた。最後はが走り寄って止めをさした。

 この時、姉は16歳、妹は13歳であった。」

 

 心を一つに、父の仇を討った姉妹は、その後、新たな人生を歩みだした。

 

 士農工商の厳重な身分制度のもとで娘たちが死を覚悟してまで、武士という身分の仇を討つことを決心したその背景には、生前の父との健全な信頼関係、そして、労苦のなか育ててくれた両親への強い想いがあったに違いない。そしてこの仇討が広範に民衆の口から口へと伝えられ、大変な評判となったことからも分かるように、その力は、田舎や貧しさという障害を乗り越え、時の権力者の不当な仕打ちに苦しむ多くの人民に勇気と希望を与えるほどの実を結んだ。

 実に、感動的な史実。

 目に見えるかたちで正義が不正や権力に打ち勝った重大事件だった。

 

 多くの心当たりのあった江戸幕府は、この仇討の出来事が、やはり政権批判や国家転覆を招き得る力を秘めていることを認識し、何としてもそれを阻止するために、この仇討の出来事の出版化や演劇を全面的に禁じてしまった。

 しかし、この甚だしい検閲下にあった本島知辰氏は、史実を忠実に書き記して民衆に伝えることの大切さを良く認識していた。そして萎縮すまいと、仇討姉妹の話の最後に「右の書付け、実否の義存ぜず候」と付け加え、見事、幕府の不当な法の目をくぐることができたのであった。

 

 そして、一度、民衆に知れた情報をかき消すことは、さすがの幕府もできず、せいぜい、歌舞伎や芸能に矛盾や非現実的観点を含めて史実を濁し汚す程度のものであった。

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